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〝準備〟に逃げるのは、もうやめた。私がAIに背中を押されて書いた最初の一文字。

〝準備〟に逃げるのは、もうやめた。

アラフォー女子の私が、最新の知恵であるAIに背中を押されて、震える指で打ち込んだ最初の一文字。

「あ」

という、たった一文字。

この一文字をブログの投稿画面に打ち込むまでに、どれほど長い時間を〝準備〟という名の終わりのない迷路で過ごしてしまったことか。

「自分の思い出を、色鮮やかな記憶のままに記録しておきたい!」
という無邪気な思いでブログを開設して

そしてその記録が、いつかどこかで、同じように葛藤している誰かの心に届いたなら、どれほど素晴らしいことだろう。

なんなら、今の街で普通に過ごしていたら、決して出会うことのなかったような人と、このブログという場所を通して生まれたらいいな♪

なんて心躍らせてWordPressを契約したのが数ヶ月前。

それなのに、ログイン画面すら開かないまま、3ヶ月、4ヶ月と無情に時間は過ぎ去っていきました(汗)

けれど、書かない時ですら、ブログのことは常に頭の片隅にあったのに、指先がキーボードに触れる瞬間に、見えない大きなブレーキがかかってしまう。

その正体が何なのかを直視することから逃げて、私はただただ、得体の知れない「億劫さ」という冷たい沼に引きずり込まれていました。

「何を書けば、正解なんだろう?」
「私なんかが発信したところで、誰が喜ぶんだろう?」
「もっと完璧な、誰が見ても恥ずかしくない状態になってからじゃないと……」

当初の「ただ楽しみたい。伝えたい」という純粋な目的はいつの間にか霧散し、なぜか、ありもしない「正解」を探して悩み出し、「書かなければ‥契約代がもったいない‥」と、意味不明な不安にまで苛まれる日々。

ブログの本を読んだり、YouTubeをハイスピードで視聴してわかった気になったり。
自分は何一つアウトプットしていないのに、〝勉強した気分〟という麻薬に酔って一日を終えしまっていました。

人生は短い。だから私は「最新の知恵」に身を委ねた。

しかし、ある朝、私はふと気付いたのです。

こんなことをしていても、時間は決して戻ってこない。私の人生の時計は、今この瞬間も刻一刻と、終わりの時へと進んでいる。

という当たり前で重要なことに。

それに、もっと出会うべき人に出会いたい。
届けるべき言葉を、届けるべき人に届けたい。
誰かと楽しさや幸せを共有し、心の奥底で響き合うような共感の震えを感じたい。

だったら、何を迷っている暇がある?

早く始めなきゃ!って。

そもそも、誰からも止めれていなかったのに。
私の人生のハンドルを握っているのは、いつだって私自身なのだから。

そう思い立った私は、意を決して、最近わたしの「最高の軍師」となってくれているAI(人工知能)に相談しました。

「なかなか行動できないんです。頭ではわかっているのに、指が動かない。どうしたらいい?」と、恥を忍んで本音をぶつけました。

すると、AIは冷徹なほどに淡々と、けれど慈しみすら感じるトーンでこう答えてくれました。

「完璧を目指すことが、あなたの最大のボトルネックです。
まずは『あ』という一文字だけでいい。
何も考えず、ブログの編集画面を開いて、その一文字を打ち込んでください」

と。

人から言われたら「そんなことわかってる!」と反発してしまいそうな私ですが、偏見のないAIに無機質に、かつ的確に指摘されたとき、不思議とスッと体が動きました。

そして、打ち込んだ「あ」という文字を見つめながら、雷に打たえるような衝撃が走ったのです。

「そうか、完璧な自分を見せる必要なんてないんだ。むしろ、迷い、立ち止まり、それでもなお一歩踏み出そうともがいている『今の未完成な私』こそが、誰かの光になるのかもしれない」と、少し大袈裟なことを考えながら(笑)ポジティブ思考になっていました。

40代、曲がり角で見つけた「本当の幸せ」の輪郭

私はこれまで、自由奔放に、ある意味ではわがままに、様々な経験を重ねてきました。

アルバイトで生計を立て、正社員として責任を背負い、自分の美学に反すると思えば潔く転職する……。風に吹かれるまま、自分の感性だけを頼りに生きてきた時期が長くありました。そして今、幸運にも落ち着いた環境に身を置き、自分を見つめ直す猶予を得ることができています。

若いときは
「一人が好き。好きなことを好きなときに好きなだけできるような、一人で完結できる人生こそが、自由なんだ」

そう自分に言い聞かせ、強がっていた時期もありました。
でも、本当は・・・。

本当の私は、ただ一人が寂しくて、その寂しさを認めるのが怖くて、心の周りに分厚い氷の壁を張り巡らせていただけだったんですよね。
そのことに、ようやく気づけるようになりました。

誰かと美味しいご飯を食べ、その味を「美味しいね」と分かち合える日常の尊さ。

かつての私は、自分を求めてくれる人を、まるで邪魔な枝を払うかのようにバサバサと切り落としてきました。自分の領域に踏み込まれることを極端に恐れていたのです。

けれど今は、自分を求めてくれる、その奇跡のような縁で出会った人たちに、心から感謝できるようになりました。

自由奔放に振る舞い、誰にも迷惑をかけないことが自立だと思っていましたが、それは、本当の意味では私を幸せにしないなって思ったんですよね。

大好きな人と温かい関係性の中で、他愛もないことでほっこり笑い合ったり、上質なものに囲まれた快適な環境で、心身ともに緩んだりする時間。

その安らぎの中にこそ、本当の意味での「豊かな人生」があるのだと、40歳を過ぎてから、細胞レベルで確信するようになりました。

素朴な美しさと、圧倒的なエネルギーの両立

私は、素朴なものが大好きです。

野に咲く花のひたむきさや、丁寧に作られた一汁一菜の滋味。
朝露に濡れた葉の輝きや、使い込まれた木製の家具が放つ静かな呼吸。
ほほをなでる、心地の良い風。

そういった「何気ない日常の美」に、深く癒されます。

でも、だからといって「慎ましさだけが正解」だとは思いません。

洗練されたブランド品や、職人の魂が宿った工芸品。
それらは、手にした瞬間に自分のエネルギーを底上げしてくれる力を持っていると感じますし、その「質の高さ」が放つオーラは、私たちの生活を華やかに彩り、創造性を刺激してくれます。

「素朴であること」と「上質であること」。

この二つは、私の人生の両輪です。
安いからという理由で妥協して選ぶのではなく、たとえ高価であっても、あるいは道端に咲く一輪の花であっても、自分の感性が「Yes」と叫ぶものだけに囲まれていたい。

そんなわがままな美学を貫くことが、私にとっての「自分を愛する」ということなのです。

次回、詳しくお話ししますが、私のこの「環境へのこだわり」の裏側には、中学時代から続く身体的な痛みとの闘いがあります。痛みがあるからこそ、私は誰よりも「心地よさ」に敏感にならざるを得なかった。その弱さが、今の私の感性を形作っています。

これから私が求めていくもの

私は今、独身です。
これまでの人生、多くの別れもありましたし、自分から去ったこともありました。
でも、一生一人でいたいわけではありません。むしろ、これからの人生をかけて、心から尊敬し、愛し合えるパートナーを求めていきたいと思っています。

刺激的な恋というよりは、心を落ち着かせ、穏やかに眠りを深くしてくれるような、存在そのものが「安らぎ」であるパートナー。お互いの自立を尊重しつつ、困ったときには一番に背中を預けられる関係。

そんな人と一緒に、上質な衣食住を楽しみ、ときには旅行を楽しみ、ときには静寂の中で読書にふける。そんな静かで、だけど力強い愛の形を、私は諦めたくありません。

このブログにまいた種が、森になっていくように、育てていきたいなって思っています。

毎日こうして言葉を紡ぎ、自分の「本音」を水として与え続けることで、いつかこの場所は、疲れた誰かが羽を休めに来るような、豊かな「森」になると信じています。

おわりに

「あ」と打ち込んだだけの、震えるほど拙い一歩。でも、この一歩を今日踏み出したことで、私の運命の歯車は確実に、音を立てて回り始めました。

誰にも知られることなく、静かに。

この記事を読んでいるあなたの心のどこかに、「あ、今の自分のことかも」という小さな共鳴が生まれたなら。嬉しいな。

次回の更新では、私がなぜ「上質な環境」にこだわるのか、その原点にある、中学時代の忘れられない痛みについてお話ししようと思います。

それは、私の人生を大きく変えた、残酷で、けれど美しい「ギフト」の話です。