この歳になって、ふと、思うことがある。
「生きているうちにやるべきことを、さぼっていないか?」と。スピリチュアルな意味ではなく、もっと現実的な意味で。自分に与えられた時間の中で、本当にやりたいことをやっているか。本当に大切にしたい人を、大切にしているか。本当に言いたいことを、言えているか。
— 時間は、有限。 —
それは誰でも知っている。でも知っていることと、体で感じていることは違う。30代になって、40代になって、ようやく時間は有限であるということが、感覚としてカラダに染み込んでくる。〝まだ時間はある〟という感覚が、少しずつ薄れていく。
その感覚を、どう使うか。
焦りに変えることもできる。恐れに変えることもできる。でも、今日を丁寧に生きるための燃料に変えることもできる。
長いようで短い人生の中で、〝さぼらない〟とはどういうことか。
それは、大きな夢を持つことではない。毎日を豪華に生きることでもない。ただ、今日の自分に正直であること。今日できることを、先送りしないこと。今日大切にしたい人を、大切にすること。ただ、それだけ。
先送りのコスト
「いつかやろう」「そのうち言おう」「もう少し準備できてから」――これらの言葉は、今日の行動を明日に渡す約束だ。でも明日の自分も、また「いつか」と言ってしまう可能性が高い。先送りは、さらなる先送りを生む。
些細なことであっても、先送りしてきたものが積み重なると重くなる。
「あれもやっていない、これもやっていない」という感覚が蓄積すると、全体がぼんやりとした自己嫌悪になる。何もしていないわけじゃないのに、何かが足りないような感じ。それは、先送りしてきたものの重さなのだ。
— 今日できることは、今日する。 —
それは、大きなことではない。たった一通のメール、たった一言の感謝、たった一度の電話――そういう小さなことを、その瞬間、すぐにする。その積み重ねが、先送りのコストをゼロにしていく。
先送りした瞬間を、もう一度選べるとしたら・・・?
「やっぱり今日言おう」「やっぱり今日行こう」――その選択が、後悔を減らす。完璧なタイミングはない。いつでも少し不完全。それでも今日することが、さぼらないということ。
今日の行動が、今日の自分を作る。
本当にやりたいことをやっているか
「本当にやりたいことをやっているか?」という問いは、怖い。
なぜなら、正直に答えると「やっていない」と気づくことがあるからだ。生活のために、安定のために、他人の期待のために、本当にやりたいことを後回しにしていることがある。それ自体は現実的な判断だが、後回しにし続けることには代償がある。
やりたいことをやっていない人生は、いつも心のどこかに寂しい風が吹いている。
満たされているように見えても、何か足りない感じがする。その「足りない感じ」の正体が、やりたかったことをさぼってきた自分への失望だったりする。
やりたいことは、完璧な形でなくてもいい。
「いつか本格的に」ではなく、「今日少しだけ」でいい。書きたいなら、今日一行だけ書く。走りたいなら、今日五分だけ走る。会いたい人がいるなら、今日一言連絡する。小さく始めることが、さぼらないことだと思う。
だから、私は今この文章を書いている。私は今40代だけど、20歳になった頃から、ずっとブログを毎日書いて、そこからいろんな人に出会っていけたらいいなと思っていた。今の自分の周りにはいない、自分の飾らない言葉に純粋に〝共感〟してくれるような感性の合う人たちと出会いたかったから。でも、なんだかんだ理由をつけて、書くことを続けてこなかった。思いだけはずっとあったけど、あとまわし、あと回しにしてきた結果、20年も経ってしまった。
小さなホンモノが、大きなニセモノより価値がある。
「いつか完璧にやる」という幻想より、「今日少しだけ本物をやる」という行動のほうが、人生を豊かにする。いま、私はそれを実感している。
大切にしたい人を大切にしているか
「大切な人を大切にしているか」という問いも、怖い。
忙しいを理由に、連絡をさぼっていないか。「いつでも会えるから」を理由に、会うことを先送りにしていないか。「もう少し落ち着いたら」を言い訳に、大切な人への時間を後回しにしていないか。
人はいつかいなくなる。
私は若い頃は仕事を転々としていて、なかなか一つの会社におさまれなかった。でも31歳のときにいま勤めている会社との出会いがあり、ずっとそこで働かせていただいている。でも数年間仕事をしてきた中で、祖母や祖父が亡くなった。子供の頃にとても可愛がってくれた、おじいちゃんとおばあちゃん。私はその人たちのお葬式にいけなかった。仕事をしていて。心もそちらになびかなかった。仕事の方が大事だと優先してしまって。
忙しさがさったあと、目の前の忙しさに心を奪われ、大切な人との時間が失われたことに気づいたときの喪失感はなんともいえないものだった。
人は、いつかいなくなる。
そんな当たり前のこと、知っているよ。そう思っていた。でもその〝いつか〟いつかが、思ったより早く来ることがある。元気だと思っていた人が、突然病気になる。近くにいると思っていた人が、遠くへ行く。当たり前だった存在が、当たり前でなくなる。その〝まさか〟が、現実になったとき。
後悔してからでは遅い。
「もっと会えばよかった」「もっと話せばよかった」「もっと大切にすればよかった」――その後悔は、もっと早く行動することで防げることが多い。完璧なタイミングを待たず、今日できることをすること。
今日、大切な人に連絡する。
それだけでいい。長い手紙でなくていい。「元気?」の一言でいい。その一言が、縁を更新する。大切にしたい人を大切にすることが、さぼらないことだ。
会いたい人には、会いに行く。
今では年老いた両親のことが本当に愛おしく思う。どうして、自分のことばかり気にしてしまっていたのか。自分のことを大切に育ててくれた両親と家族に愛を向けてこなかったのか。そう気づいても、すぎた時間は戻ってこない。だから最近は、定期的に実家に帰ることにしている。まだ、近くに住んでいることが救いだ。
愛する人にあいにくこと。そのための時間を、意識して作ること。優先順位の問題だ。
言えていない言葉がないか
「言えていない言葉がないか」。これが、さぼらないことの核心だと思う。
感謝を伝えていない人がいないか。謝れていない出来事がないか。「好きだ」と言えていない人がいないか。「ありがとう」を言い忘れている日々がないか。
— 言葉は、言わないと存在しない。 —
どれほど心の中で感じていても、口から出なければ相手には届かない。届いていない感謝は感謝として機能せず、届いていない愛は愛として機能しない。言葉は、渡してはじめて意味を持つ。
言えていない言葉の重さが、人生に澱(おり)として溜まる。
「あのとき言えばよかった」という後悔が積み重なると、人生がずっしりと重くなる。その重さを、今日から少しずつ減らすこと。言えることを、今日言うこと。
言葉を渡すことが、さぼらないことだ。
感謝、愛情、謝罪、共感――それらを言葉にして渡すこと。完璧な言葉でなくていい。不器用でもいい。伝えることに意味がある。
誠実さを手放さないこと
さぼらないことの本質は、誠実さだと思う。
自分の気持ちに誠実であること。大切な人への誠実さ。自分が信じていることへの誠実さ。誠実さとは、自分の内側にあるものと、外側の行動を一致させることだ。それが崩れたとき、人は「さぼっている」という感覚を持つ。
誠実さは、エネルギーがいる。
楽な選択をしていれば、誠実でなくても日々は過ぎていく。でも誠実さを手放した日々は、どこか空洞だ。「本当はやりたかった」「本当は言いたかった」「本当は行くべきだった」という感覚が蓄積する。
— 誠実さは、自分への約束 —
「今日、正直に生きる」という約束を、毎朝自分にする。完璧にはできない。でも、その約束を持っていること自体が、誠実さへの向きを保ってくれる。
誠実さは、磨かれる。
一度でも、怖くても正直に言えた経験が、次の誠実さの土台になる。「あのとき誠実でいられた」という記憶が、自分への信頼になる。その信頼が、また誠実さを選ばせる。
誠実さを手放さないことが、さぼらない人生の核心だ。
それだけ覚えていれば、迷ったとき、戻れる場所がある。
今日の選択が人生になる
人生は、今日の積み重ねだ。
大きな一日があって人生が変わるのではなく、何でもない今日の選択が積み重なって人生になる。「今日さぼった」という小さな選択が、一年後には「さぼり続けた一年」になる。「今日少しだけやった」という選択が、一年後には「続けられた一年」になる。
今、この瞬間の選択を、意識すること。
「今日、大切な人に連絡するか、しないか」「今日、やりたいことを少しだけやるか、また明日にするか」「今日、言えることを言うか、飲み込むか」――これらは小さい選択だが、積み重なると大きな差になる。
選択には、勇気がいるものがある。
「今日言おう」と決めても、実際に言うには勇気がいる。「今日会いに行こう」と決めても、動き出すには力がいる。その勇気と力を、少しだけ絞り出すこと。それが、さぼらない選択だ。
今日の自分を、信じること。
「どうせまた明日になる」と思うと、今日の選択が軽くなる。「今日の自分はできる」と思うと、選択が重くなる。その重さを引き受けること。今日の選択が、今日の自分を作り、明日の自分を作る。
今日の選択が、人生という作品になる。
どんな作品を作るかは、今日決まる。
一日の終わりに問うこと
今日、さぼらなかったか。
その問いを、一日の終わりに持つことが、さぼらない人生の習慣になる。大きな達成を問うのではない。「今日、言えることを言えたか」「今日、大切な人を大切にしたか」「今日、本当に感じていることに正直だったか」を問う。
問いは、行動を変える。
「今日を振り返る」という習慣を持つと、翌日の選択が変わる。「昨日、言えなかった。今日こそ言おう」「昨日、連絡しなかった。今日する」――振り返りが、行動の修正を促す。
後悔は、行動に変えてこそ意味がある。
「あのときこうすればよかった」という後悔は、過去を責めるための言葉ではなく、今日の行動を変えるための情報だ。後悔を情報として使うこと。そうすれば、後悔は成長の材料になる。
さぼらなかった日の手応えを、覚えること。
「今日、ちゃんと生きた」という感覚は、特別なものだ。その感覚を覚えておくことで、次もその感覚を求めて動ける。さぼらない選択の報酬は、その手応えそのものだ。
一日の終わりに、自分に問う。
「今日の自分は、さぼらなかったか」。その問いだけで十分だ。答えがどちらであっても、明日の自分が少しだけ変わる。
今日の振り返りが、明日のさぼらない選択につながる。
それが、連鎖だ。その連鎖が、一生を作る。
人生の密度について
人生の長さより、密度のほうが大切だと思うことがある。
長く生きても、さぼり続けた人生は薄い。短くても、誠実に生き続けた人生は濃い。長さは選べないが、密度は選べる。今日の一日をどれだけ本物として生きるか――それが、密度を決める。
密度の高い日は、小さな選択の積み重ねから生まれる。
朝起きて、今日やりたいことをひとつ決める。誰かに感謝を伝えようと思う。言えなかったことを、今日は言ってみようと思う。そのひとつひとつが、一日の密度を上げる。それは、特別なことをするということではない。日常の中で、少し意識を向けることだ。
さぼった日は、密度が薄い。
何もしていないわけではないのに、夜になって「何かが足りない」と感じる日がある。それは多くの場合、やりたかったことをやらなかった日、言いたかったことを言わなかった日、大切にすべき人を後回しにした日だ。そのずれが、密度の薄さとして感じられる。
密度の高い人生を積み重ねると、後悔が少なくなる。
「あのときああしていれば」という後悔は、さぼりの痕跡だ。さぼらなかった日は、たとえうまくいかなくても「やれることはやった」という感覚が残る。その感覚が、後悔を少なくする。
今世でやることをさぼらない、とは人生の密度を上げることだ。
その密度は、今日から選べる。どんな過去を持っていても、今日から変えられる。今日の密度を上げる選択が、今日から始まる。それだけが確かなことだ。
— 今日も、色濃く生きる —
それだけを、決める。
さぼらないとは、完璧を目指すことではない。今日できることを、今日するということだ。大きなことでなくていい。誰かに「ありがとう」と言う、気になっていた本を開く、会いたいと思っていた人に連絡する――その小さな選択が、今世でやることをさぼらない人生の実体だ。
今日という日は、二度と来ない。だからこそ今日の選択が大切だ。何をするか、何を言うか、誰を大切にするか――今日の自分に問いかけながら、ひとつずつ選んでいくこと。それだけが、さぼらない人生をつくる。今日も、その選択をしていこう。
今日の小さな選択が、明日の自分を作る。その積み重ねだけが、さぼらなかった人生として残る。
最後に
今世でやることをさぼっていないか、と問う。
責めているのではない。「今日から始められる」という可能性を問うている。今日まで先送りしてきたとしても、今日から変えられる。今日まで大切にできなかった人でも、今日から大切にできる。今日まで言えなかった言葉でも、今日言える。
— 今が、スタートをきるとき。 —
後悔は過去のものだ。今日からの行動で、未来は変えられる。「やっぱりやろう」「やっぱり言おう」「やっぱり会いに行こう」――そう決める今日が、新しい始まりだ。
今世でやることは、大それたことではない。
今日の誠実さ、今日の感謝、今日の勇気――それだけだ。その積み重ねが、「さぼらなかった人生」になる。
今日も、さぼらない選択をする。
それだけを、決めよう。